【陸上競技】「迷ったら攻めろ!」箱根駅伝に4回出走した伝説の主将・飯田貴之選手が後輩に送るエール

陸上競技
飯田貴之選手<提供・富士通>

 

先日発刊した「11大学合同 箱根駅伝特別号」1・12面に掲載の特別企画「1999年生まれ同世代トリオ OBスペシャル対談」にて、飯田貴之(青学大令4総卒=現富士通)、太田直希(早大令4スポ卒=現ヤクルト)、森凪也(中大令4経卒=現ホンダ)の3選手の対談が実現した。その中で、青学大OBである飯田選手に独占インタビューを行った。大学生当時のお話、卒業後のお話、青学大への期待、そして今後の抱負。最後に、“箱根駅伝を目指す、陸上を頑張る全ての後輩へ” 熱いメッセージを語った。

 

実業団でも活躍する飯田貴之選手<提供・富士通>

 

―対談にて、当時の箱根駅伝について「4年目は全日本8区でアンカー対決をした際に競り負けた相手である花尾恭輔(令6駒大経済卒=現トヨタ自動車九州)選手を意識していた」という話がありました。「迷ったら攻めろ」の名言が生まれたのはこの全日本大学駅伝のレースでしたね

飯田:そうです!

 

―今振り返るとどうですか

飯田:全日本の後はあまりレースを見返したくない気持ちが、正直ありました。自分の情けない姿というか、なんであの時あの選択(襷をもらった時点で花尾選手と18秒差。一時追いつくも、迷って“攻め”を選択せず、花尾選手の後ろについた)をしたのだろうという後悔もあったので、箱根が終わるまでは見返していないです。ただ、あのレースがあったからこそ、それ以降のレースでどういった走りをすればよいかが明確になった気がします。 今となっては、あのレースがあってよかったです。

 

―(対談より)鶴川正也(令7青学大総卒=現GMOアスリーツ)選手が、最終学年で目の色を変えて練習していたと聞いていたそうですね

飯田:僕が学生の時に個人的に見てもらっていたトレーナーのところで鶴川も見てもらっていて。それで普段のトレーニングの様子を見ていたのですが、そこからさらに活躍しだしていました。本人も多分相当気持ちを変えて取り組んだのだなというふうに思っています。

 

―今も連絡を取っているのですか

飯田:いや、あまり(取っていない)。当時1年生と4年生だったので、全然話はしますが、僕はそもそもあまり自分から後輩を誘ってご飯に行かないタイプなので、プライベートでご飯に行くような繋がりはないです。(後輩から)誘われたら喜んでいきます(笑)。

 

―現役時代だと能島翼(令4青学大営卒)さんと仲がよかったイメージがあります

飯田:そうですね。能島は同期で仲もよいので、誘ってご飯に行くのですが、数は多くないです。実業団に入って合宿や試合の兼ね合いもあって。一緒に行くなら何も気にせず全力で飲みたいので(笑)。「前回いつ会ったっけ?」とはなりますが、最低年に1回は会っています。

 

―他にはいらっしゃいますか

飯田:能島、高橋(勇輝、令4青学大国経卒)、渡辺大地(令4青学大社卒)とかは時々。先輩だと圭太(𠮷田圭太、令3青学大地卒=現GMOアスリーツ)さんもそうですし、神林(勇太、令3青学大地卒)さんも!あと、中山(大樹、令3青学大総卒)さん。それと一個下の岸本(大紀、令5青学大社卒=現GMOアスリーツ)もゲームを一緒にやる中なので。
あとは現役で走り続けている先輩とか後輩とか、合宿先が一緒になったら今でも一緒にジョギングしますね。

 

―今だからこそ言える学生時代のエピソードはありますか。

飯田:逆に言えなかったことがないですね(笑)。でも寮生活のミスは結構多かったです。割と怒られるタイプの人間でした。寮生活をする中で、(名札を)寮にいるときは白札、寮から出たときは赤札にするという決まりがあります。でも赤にせず授業に行ってしまって。それはミスなので、食事のときにみんなの前で謝り、僕が 2年生のときにキャプテンだった鈴木塁人(令2青学大総卒=現GMOアスリーツ)さんにすごく怒られてしまいました。なのにそこからすぐに夕飯でやらかしてしまいました。そのときは新チームの 1個上の副キャプテン松葉(慶太、令3青学大社卒)さんに強く怒られました。でも、それが「3年にもなって恥ずかしい」と思えるすごくいい機会になりました。そこから 2年間は、ミスはなかったです。今でも覚えているのですが、大学2年生の3月 31日、そこが最後のミスでした。

 

―キャプテンになってからはいかがですか

飯田:大学3年生の4月1日からミスはないです。キャプテンになってからも、やはり怒る側である自分がミスしていたら話にならないので。自分が4年生になってからは鶴川とかが危なくて、同じ部屋だったのに怒らなくてはいけなかったです(笑)。
部屋ではそこまでみんなの前ほどは怒らずに、「まあ、気を付けろよ」みたいな感じで言ったりはしていました。

 

―キャプテンをやっていて大変だったことや苦労したことは

飯田:苦労したのは、自分の理想としているキャプテン像を体現できなかったことです。神林さんみたいな、走りで引っ張るかっこいいキャプテンに憧れていました。自分は実力の面でそんなにエース格という選手でもなかったので、その点でネガティブになったりもしました。キャプテンになってすぐに故障しましたし、出雲・全日本まで全然よい走りができず、自分がキャプテンでよいのかと(ネガティブになった)。だから、せめて普段の練習への姿勢と、ミーティングで何を話そうかは毎回しっかり考えていました。
どう伝えたらみんなのやる気が出るのかとか、チームの前で話をする経験は生きています。最後1年間は陸上に全振りでやってきた自覚があって、オフの日はトレーニングをし、年間みっちり陸上をやれたというのは、キャプテンになったからこそでもあるのでよかった点です。

 

―実業団に入ってからのオフの日と、学生の時のオフの日の違いは

飯田:(実業団では)オフはオフで休まないと回らない。休むのも一つのトレーニングです。学生のときは、走らなくてもトレーニングをしていたからこそ箱根駅伝も走れたので、(学生のときは)そのやり方がよかったと思います。実業団では、しっかりリフレッシュして、軽い体で練習をしっかりやるという感じになっています。

 

―学生時代に、陸上以外で熱中していたことは

飯田:ゲームです。コロナ禍で寮から全然出られないときに、思い切ってゲーム用にパソコンを買って結構本気でみんなとやっていました。岸本はすごくゲームがうまいです。あとは、BISHというアイドルは、初めてファンクラブに入ってライブも一回行きました。熱中したのはその2つです。

 

―もし陸上をやっていなかったら、どんな人生だったと思いますか

飯田:小学生のとき元々野球をやっていたので、父も兄貴も野球をやっていたことから、多分野球をやっていたかなと。普通に地元とかで働き出して普通の生活をしているかもしれないので、陸上は中学の部活から始めたのですが、本当に始めてよかったなあと思います。

 

―飯田選手は4年間箱根駅伝で異なる区間を走られました。なかなか珍しいと思います。それぞれの感想と各区間で重要となるポイントはありますか

飯田:結局全部きつい。そして結局全部重要。山は特殊なので、若林(宏樹、令7青学大地卒)はもっと速いと思うのですが、僕は1キロ㍍3分40秒くらいでずっと登っていました。ただ、「ああきついな、これ以上無理だな」と思ったときにちょうど平坦な道が来るんですよ。その繰り返しなのを試走で確認できたのが大きいです。本番では試走よりも1分くらいハイペースで入ったのですが、「ここ頑張ったら休める」と思うと焦りが少なくて。そこは1つ5区を走る人に伝えたいです。

 

―よいアドバイスですね

飯田 それと、神野(大地、平28青学大総卒=現MABP MAVERICK)さんから頂いたアドバイスで、小涌園から頂上までがの4キロ㍍がみんなのラップタイムが落ちるところなのに、神野さんはすごく速かったです。そこを頑張れば区間順位も上に行けると言われて、もうそれを頭に入れて走りました。(5区を走ったとき)小涌園までで後ろの 2位の浦野(雄平、令2国學院大済卒=現富士通)さんに、20秒ほど詰められて。すごく速いなと思ったと同時に、ということは多分この後彼は辛くなるぞと思いました。実際1分30秒差が1分10秒差になって、最後の4キロ㍍で1分30秒差に戻せました。そこ(小涌園からの4キロ㍍)を頑張るという意識があれば結構よい順位で走れると思います。

 

―他にはありますか

飯田:正直4年目の4区が 一番きつかったです。というのも、4年目で色々感じながら走っていたのもありますし、5区とは違ってある程度平坦なコースなのでかなりのハイペースで入ります。最後はもともと5区だったコースで、少し上っています。2区とかもそうだと思いますが、4区は上りがずっと続くから最後はもう本当にきつかったです。

 

―昔は4区が繋ぎ区間と言われていました。今はもうそのように呼べる区間はありませんね

飯田:そうですね。4区が大事だと本格的に意識され始めたのは相澤(晃、令2東洋大済卒=現旭化成)さんが(4区に)来た年ですかね。青学では過去にたむかず(田村和希、平30青学大営卒=現住友電工)さんがルーキーとして成功していますが、相澤さんが4区を走った年、(青学大は)アクシデントも重なり4区で差がついてしまった事例があって、改めて(4区を)意識したのは、そのときからですね。

 

―駅伝戦国時代と言われている中、青学大が箱根駅伝で優勝するためにはどんなことが必要だと思いますか

飯田:やるべきことをやったら勝つと思っています。もちろん母校に勝ってほしいです。(対談の箱根駅伝順位予想で)中央大を2位予想にしたのは、一駅伝ファンとして面白い展開も考えたからです。しかし、やはり青学はなかなか崩れないかな。ずっと勝ち続けてきている印象がありますが、僕の4年間では2回負けています。ただ、負けた年の経験も踏まえての今があると思います。「優勝して満心にならない」のは大事です。僕の一つ下の代は負けてしまいましたが、(当時は)正直危ないのではと予想していました。

 

―そういった雰囲気がわかるのですね

飯田:あの年、 同期で飲んでいたら1回奥さん(寮母・原美穂さん)とばったり会ってそのままご飯に行く流れがありました(笑)。そのときに「なんか今年のチーム危ないかも」と話しました。僕が1年のときの4年、森田(歩希、平31青学大社卒=現GMOアスリーツ)さんの代も、最強の代で箱根は絶対に負けないといわれていました。けど負けてしまったのです。小野田(勇次、平31青学大営卒=現中央発條)さんが、箱根前からどこか少し緩んでいるような雰囲気を冷静に見ていて、「なんか危ないんだよな」とか箱根前に言っていました。それが結果として優勝できず当たっていて、(奥さんは)そのときと同じ匂いがすると言っていました。そして結果負けたという感じでした。ただ去年、4年生が強い代でしたよね。その中でもしっかり勝ち切ったというのがすごく大きいと思っています。ここで勝ち続けたので、なかなか今の青学は崩れない。エース格の黒田朝日(地4)もちゃんといて、それに続く選手もどんどん出てきているので、練習をしっかりこなしていければ必然と結果はついてくると思います。あまり難しく考えなくてよいかなと思います。

 

―確かに箱根駅伝、見事に2連覇を果たしていましたね

飯田:その 4年生が抜けた穴が大きいと、世間の目はそういうふうに見ていると思うのですが、僕的にはそんなに箱根に関しては怖くないです。ただその前の出雲と全日本であまりにも健闘できずにいるとなかなか流れとしてもきついかなと思うので、やはり(箱根駅伝の)前のレースで優勝できれば、それこそ一番よいです。ある程度その少人数での駅伝でも通用していれば、必ず 10人でも青学が優位に立つと思います。そこを一つ僕は注目して、今年見ていきたいなと思っています。

 

―予想では対談の通りの結果にしたけれど、青学大には本当に期待をしているということですね

飯田:はい、そうです!確かに(OB対談をした太田選手、森選手との)3人のすり合わせではそうしました。ただ、予想で1位になった大学は優勝できないみたいなジンクスもあるんですよ。瀬古(利彦、昭55早大教卒)さんの優勝予想とかもそういわれてますかね(笑)。そういうのもあるので僕は自我を封印して予想しました(笑)。やっぱり勝って欲しい。応援しているのは母校なので、あの予想を覆して優勝してほしいです。

 

―美穂さんとお会いしたときに一緒にいた同期の方はどなただったのですか

飯田:能島、高橋、(渡辺)大地、石鍋(颯一、令4青学大社卒)+奥さんかな。(奥さんは)ちょっとだけと言いながら最後までいてくれました。

 

―同期の方との一番の思い出は何ですか

飯田:難しいですね。特定の人物だったら、能島とのエピソードがあります。能島は、本気で箱根のメンバー入りを目指していました。最後のMARCH対抗戦の1万㍍のとき、同期で最後まで走り続けているのは5人しかいなかったので、全員で箱根メンバーに入りたいと(みんなが)思っていました。そんな中で、能島が僕の1つ前の組で出走しました。気負いすぎたのか、29、30分とかそのくらいかかってしまい、もうメンバー入りは厳しいみたいになって。次僕が走る組だったのですが、その前にもめちゃめちゃ泣きながら「ごめん」と謝ってきました。普段めちゃめちゃふざけて面白いやつですが、それだけ本気で目指してきたのだなと、あの姿は結構感じるものがありました。それもあって気合が入り、僕はそのMARCH対抗戦で自己ベストを出しました。本当に(このエピソードがあって)箱根に向けても気合が入りました。やはり4年目は、同期の頑張りがすごかったです。

 

―「山の神」のようなキャッチコピーを自分につけるとしたら何ですか

飯田:自分で?!(笑)、難しいですね。全然思いつかないです。エース格ではなかったですし、どちらかと言えばどこの区間でも任せられると思ってくれていたのでしょうか。そういうのを表す言葉、便利屋とかですかね。かっこよく言うならオールラウンダー(笑)。他の誰かがエース区間を走ってくれたから、僕は他の区間でよい成績を取れたな。(僕が)2区を走っても、絶対区間順位でよい成績を残せていません。運が良かったなくらいにしか思っていないです。

 

―すごく謙虚ですね

飯田:いやいや、でも実際(運がよかったというのは)そうですよ。本当に箱根駅伝を知っている人からしたら、そう思っている人はいると思います。

 

―その謙虚さも強さの秘訣だと思います

飯田 いやいやいや、そんなことないです(笑)。

 

―今後もすごくたくさんの人に応援されると思います。青山スポーツ新聞「アオスポ」では、毎年12月号に、“応援ハッシュタグ”を選手から募っています。飯田選手はどんな「#(ハッシュタグ)」で応援してもらいたいですか

飯田:1年目に箱根を走った後、ツイッターで「いいだでいいや」といってもらって、いろんなファンに口ずさんでもらったので、そのままがいいです!

 

―最後にファンの皆様にコメントを

飯田:この前の世界陸上(東京 2025 世界陸上競技選手権大会)で祐也(吉田祐也、令2青学大教卒=現GMOアスリーツ)さんが青学から初の日本代表に選出されて、 1つ歴史が変わったと思っています。僕は実業団に入ってからなかなか目立つような成績を残せていませんが、同じ種目をやっている人間として祐也さんに続きたいです。成長曲線は緩やかですけど、まだ僕成長し続けてはいるので、「まだまだやれる」と思っています。これから学生時代の注目度を越えられるように頑張ります。引き続き学生に加えて、実業団の応援もいただけると嬉しいです。お願いします!

 

―本日はお忙しい中、本当にありがとうございました!

 

後日、“箱根駅伝を走る、陸上を頑張る全ての後輩へ” 改めて飯田選手からメッセージが届いた。

飯田貴之選手<提供・富士通>

(箱根駅伝特別号12面に掲載の一言応援コメントについて)

「後輩たちへのメッセージがなかなか思いつかず結局“迷ったら攻めろ”にさせていただきました。自分の座右の銘ではありますが、後輩たちに贈りたい言葉でもあります。自分は失敗をしてこの言葉を手にしましたが、後輩たちには限られた四年間限られた箱根路を走るチャンスでできるだけ悔いを残さない選択をして欲しいなと思います。」

直筆メッセージ

 

(取材・記事=成田紗耶加)

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